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箱根駅伝が終わった後

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箱根駅伝が終わった後

駒澤大学の陸上部は箱根駅伝が終わると、その日は打ち上げと言う形で部員全員とサポートしてくれた人達と校舎で食事をする。

もちろん箱根駅伝の結果によって、食事の雰囲気は変わり
俺が1年生の時は優勝候補に上がりながら、7位だったので葬式かと思うくらい静まり返っていた。


俺は先輩から怒られる事が多くて、好かれてるとは言い難かったけど、その中でも優しく接してくれていた高井さんを個人的に応援していた。

その高井さんが「7位で申し訳ない」と涙を堪えながらスピーチしていた姿を見て


いや、高井さんは頑張ったっすよ!
と心の中で思いながら、なぜか俺も泣きそうになったのを覚えている。



今思うと、なんで控えの俺がそんな上から目線やねん。




俺は何者や。



一方で2年生の時は箱根駅伝優勝したので、明るい雰囲気だった。


俺は走った訳じゃないから、アホみたいに無邪気に喜ぶのは空気的に難しかったけど


仲が良い同級生が嬉しそうにしてたので、そこは少し俺も嬉しかった。

(苦労してたもんなぁ。。。おめでと。)

と心の中では言ってたさ。


ただ、直接言うのは恥ずかしいから心の中でささやかながら思っていた。


一方で入学直後に故障し、俺と共に苦労を味わった星は、直前に10区から外れたので、明らかにテンションが低かった。


入学時は俺と同様に「1年生」かつ「故障者」と言う最悪のセグメントに2人ともいたので、共に過ごす期間が長く、1番思い入れがある選手やった。


どんどん速くなって行く星を見ていくのは、遠い存在になっていく気がしていたので、寂しい気持ちと、嫉妬が混じって、素直に応援し辛い時もあった。


正直ジェラシー感じまくって、俺はジェラシーモンスターになってた。


でもこの時はもう雲の上の存在になっていたので、素直に応援していた。


かける言葉がない雰囲気やったけど、

「この俺も補欠やってんから元気出せよ」

と、万年補欠の俺が上から目線で言って、和ませるのが俺の限界だった。

ブラックジョークだったのでリスクはあったが想像以上に爆笑していたので、俺も少し安堵した。


乾杯に行けない小心者の俺

普段話さない先輩とも「お疲れ様でした」と乾杯をするので、その流れで大八木監督にもしに行こうかと思ったが、ビビって行けずにいた。


「挨拶の意味も込めて乾杯はしにいった方が良い・・・」

と分かりつつも、

「でも怖ぇ。」

となってて
「ちゃんと挨拶行った方がいいよ!」
の感情と

「でも怖いし。。。」

の間で気持ちが揺れていた。


結局「俺が行っても仕方ない」と自分に言い訳をし、乾杯には行かなかった。

いや、正確にはビビって行けなかった。

あの時、俺に少しの勇気があればいろいろ違っていたのかもしれない。




優勝メンバーはその後も後援会の人と2次会へ行くのだが、それ以外の選手は寮へ戻り、いつもの日常に一瞬で戻る。
翌日は朝のニュースにゲスト出演するので優勝メンバーは大忙しだった。


朝練習が終わると帰省となるのだが、驚いたのは年間で1番ピークの大会が終わったので1週間くらいオフ(帰省)になるのかと思っていたのだがオフが2日だった事だ。


箱根駅伝の2週間後には別の駅伝に出場し、またその翌週の都道府県対抗駅伝にも出るので、主力選手は箱根駅伝が終わってからもハードだったように思う。

主力選手には尊敬の眼差しを送る一方で


たいして疲れてもいない俺が
「オフが欲しいぃぃよぉぉぉ」
と思っているのは、口が裂けても言えない事実だった。

これまでの辛かった体験などまとめてます。続きは下記から。

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少年A

1児のパパ。 昔から他の追随を許さない無能だと自負している。 怒られやすい遺伝子が骨の隋まで刻みこまれている。 子供には遺伝ほしくなかったけど、遺伝してそう。

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